現代社会に活かせる『神話伝承』が人生攻略のヒントになる!
神話伝承は、人類の長い歴史の中で培われてきた知恵と経験の宝庫です。そこには、人生のあらゆる場面で役立つヒントが隠されています。 日本心創り研究室では、神話伝承の紐解き、現代生活に活かせる生活の智慧と人生攻略法ヒントを紹介していきます。
<日向からの船出航路>
磐余彦尊いわれびこ(神武)と五瀬命いつせのみこと(神武の兄)は、軍勢を率いて日向の美々津(みみつ)から船出しました。 途中、豊後水道を抜け、宇佐(うさ、現在の大分県宇佐市)では、土地の豪族である宇佐津彦(うさつひこ)の歓迎を受けました。 その後、筑紫(つくし、現在の福岡県)、安芸(あき、現在の広島県)、吉備(きび、現在の岡山県)などを経て、 数年の歳月をかけて瀬戸内海を東に進みました。

<難波への上陸と孔舎衛坂の戦い>
一行はついに難波(なにわ、現在の大阪府)の津に到着しました。しかし、そこには生駒山を中心に勢力を持つ豪族、 長髄彦(ながすねひこ)が待ち構えていました。 長髄彦の軍勢は強力で、孔舎衛坂(くさえざか)での戦いで、五瀬命は敵の矢を受けて深手を負ってしまいます。 磐余彦尊は一時退却を決意し、紀伊半島を南下することにしました。 五瀬命は、「日の神の御子である我々が、日に向かって(東へ)戦うのは良くなかった。 今度は日を背にして(西から回り込んで)戦おう」と言い残し、紀伊の男之水門(おのみなと)で亡くなりました。

生駒山中
<熊野での苦難と天の助け起死回生の霊剣『布都御魂』>

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紀伊半島を南下する途中、熊野(くまの、現在の和歌山県南部から三重県南部)の山中で、一行は土地の神の毒気にあてられ、 全軍が倒れてしまうという危機に陥ります。 その時、天照大御神と高木神(たかぎのかみ)の神託を受けた建御雷神(たけみかづちのかみ)が、霊剣「布都御魂(ふつのみたま)」を 熊野の住人である高倉下(たかくらじ)に授けました。高倉下がこの剣を磐余彦尊に献上すると、 不思議なことに毒気は消え去り、軍勢は息を吹き返しました。 さらに、天照大御神は三本足の霊鳥、八咫烏(やたがらす)を遣わし、一行を大和への道案内としました。八咫烏の先導により、 険しい山道を踏み越え、ついに大和の宇陀(うだ)へとたどり着きました。
この布都御魂(ふつのみたま)は『石上神宮』に現在も祀られています。
石上神宮は、第10代崇神天皇の御世に創祀された古社で、主祭神として、次の三柱の神様をお祀りしています。
最古の神社の1つ、石上(いそのかみ)神宮(奈良県天理市)軍事豪族・物部氏の氏神が祀られ、かつては大和朝廷の武器庫も兼ねていた
軍事に欠かせない歴史上重要な神代三剣の御霊をお祀りしている神宮です。
<石上神宮に祀られている3つ剣の御霊>
1:神武天皇を邪神より救われた神剣の御霊『布都御魂大神』(ふつのみたまのおおかみ)

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布都御魂は、『国譲り神話』でタケミカヅチによる葦原中国の平定に使ったとされる剣でもあります。 そして起死回生の剣として高倉下がイワレヒコ(神武天皇)に献上し復活し見事東征に成功に導いた剣です。 荒ぶる神を鎮める力を持ち、悪神の毒気を払い、復活させる霊力のある剣 現在は石上神宮と鹿島神宮んに奉納されてます。
2:草薙の剣『御霊布留御霊大神』(ふるのみたまのおおかみ) 大蛇の尾から出現した剣別名 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)後に三種の神器のひとつとされます、
「草薙の剣」の始まりは”古事記“”日本書紀”の素戔嗚尊 (すさのおのみこと)による八岐大蛇(やまたのおろち)退治の 話で初めて出てきます。 素戔嗚尊はこの霊剣を天上界である高天原の天照大神のもとへ 使いを遣り、献上することにしました。 天照大神の孫の瓊瓊杵尊が草薙の剣と共に、珠、鏡を含めた三種の神器を 地上界に持ってきます。 さらに後の時代の”日本武尊”が草薙の剣”で大和平定に大活躍しました。 この剣の御霊が布留御霊大神として石上神宮の御際神三柱の一つなのです。 日本武尊の妻のふるさとの愛知にある”熱田神宮” に本物の草薙の剣が奉納され、 現在天皇には形代としてのレプリカが祀られてます。

3:八岐大蛇を打ち倒した神剣の御霊『布都御魂大神』(ふつしみたまのおおかみ)
天十握剣(あまのとつかのつるぎ)とも言う
別名、天羽々斬(あめのはばきり)とも言ってます。
「十拳剣」の総称としても知られています。
『神生み神話』でイザナギノミコトがふるった剣、
『国譲り神話』でタケミカヅチが切り先にあぐらをかいた剣、
『海山幸彦神話』で山幸彦が自分の「十拳剣」を砕いて500個の釣り針にした。
『八岐大蛇神話』でスサノウノミコトが八岐大蛇退治に使われた剣

<石上神宮に祀られる不思議な形の七枝刀>
古代百済からもたらされた国宝・七支刀(しちしとう)は、6本の枝を持つ特異な形の剣身も祀られています。 七枝刀は古代東アジアの情勢を記した銘文が金象眼されていることで知らてます。 鉄製で儀式や祭事でもちいられる儀刀で「古事記」「日本書紀」にも記載されている刀です。 刀を奉る神剣渡御祭(とぎょさい)が毎年6月末に斎行されます。

七枝刀(国宝)




太鼓の音が響く中、木枠に納めて金錦の袋で覆った
神剣を押し立て、白装束の神職らの列が進む。
末社の1つ神田(こうだ)神社に至ると、
田植え作業を演じる神事が行われた。
古来から「神威で厄災を祓(はら)い、
豊作を祈る祭りが行われます。
現在祭りには七支刀のレプリカを使用してますが、明治までは実物を用いた。
このような祭りの姿は少なくとも17世紀まで記録を遡ることができる。
地元では「でんでん祭」と呼ばれ、夏到来の風物詩として親しまれている。
昔は祭りが終わると夏を告げる浴衣を着る慣習がありました。

七支刀に彫られた文字などを手がかりにした研究では、七支刀が古墳時代の西暦369年、朝鮮半島にあった「百済」から
当時「倭」と呼ばれていた日本の大王に贈られたものだと推測されてます。
軍事をつかさどる豪族・物部氏の氏神だった石上神宮で保管されてきました。
古代の歴史書「日本書紀」には、神功皇后摂政52年に百済から贈られた「七枝刀(ななつさやのたち)」にあたると推測されており
、前述の推定に誤りがなければ、この七支刀の銘文は『日本書紀』の紀年を訂正し、その伝承を裏付けることになります
しかも、この銘文は、我が国古代史上の絶対年代を明確にする最古の史料にもなります。


石上神宮には2000年の時を経て 4本の霊剣が現在も祀られています。 刀の神宮なこともあり打ち水も剣のようなの まきかたをしてます。 境内の空気は澄んでいて穏やかな感じでした。
<ニギハヤキの裏切り>
大和の平定にはニギハヤキがいなければできなかった。

[大和平定物語の定説]
大和の地では、兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)という兄弟の豪族がいました。
弟猾は恭順の意を示しましたが、兄猾は抵抗を試みました。しかし、磐余彦尊の知略により兄猾は討たれました。
その後も、各地の抵抗勢力との戦いが続きましたが、最大の敵はやはり長髄彦でした。
長髄彦は、天の羽々矢(あまのははや)と歩靫(かちゆき)という
宝物を示し、自分が天つ神の子孫である饒速日命(にぎはやひのみこと)に仕えている証だと主張しました。
磐余彦尊もまた、天つ神の子孫である証を示し、互いに正当性を主張しました。しかし、饒速日命は長髄彦の頑なな態度を見限り、
長髄彦を討って磐余彦尊に帰順しました。これにより、大和の主要な抵抗勢力は平定されました。
橿原宮での即位
大和を平定した磐余彦尊は、畝傍山(うねびやま)の東南、
橿原(かしはら)の地に宮殿を築き、初代天皇として即位しました。
これが神武天皇です。
ここまでが『古事記』で神武東征物語として語られています。
<日本の建国神話 初代神武東征物語>
4章パート2.更新2025/6/20
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<日本の建国神話 初代神武東征物語>
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